平成の扉が開いて間もない、入社したての頃・・・
HONDA創業者⇒【本田宗一郎】さんに、生前何度かお会いしました。
なかでも、
まだ硬式野球部時代、東京ドームが出来たて時、
都市対抗野球大会に応援に来てくださった時です。
グランドにいても、ハッキリとその場面を覚えています。
空間がよどむ感覚がして、何事だろうかと・・・、
すると応援団からのマイクアナウンス
東京ドームスタンドに響きました。
「最高顧問がいらっしゃいましたー!」
紹介間もなく、
「オ・オ・・・・!」。
「ホ・ン・ダ・・!ホ・ン・ダ・・!ホ・ン・ダ・・!」
まるでコンサートのような。大声援の中、
手を高くあげて、階段から席に歩いて
満面の笑顔で、、、笑っているように見えました。
完全にグランドでなく、スタンドに視線が・・・
オーラというか、空間が攀じれているようだったのを
今でも思いだします。
なんか、この人すっごーいな。。。(ルフィー調)。
東京ドーム元年の年、
今から考えれば、、野球より全天候型のドーム球場に
、関心があったと思うのです。。。
あの当時から、「火の魂をつくりてー」
「UFOをつくれたっら、死んでもいい!」とか
「ミステリーサークルにいきてー」とか
言っていたそうで・・・、
たしか試合途中、に帰っていきました(面白い人です)。
★ ★ ★ ★
戦後、敗戦で日本人が自信をなくしている時に、
まだ町工場にすぎなかったHONDA
世界一に挑戦していった・・・ジャパニーズドリーム。
4、50年たった今、ホンダ神話とまでいわれ、
松下幸之助とならび戦後
破竹の快進撃をつづけた日本製造業の、立役者でした。
当時、最先端技術とスピードを誇った、イギリスのマン島TTレースにて、
列強の欧米諸国の、バイクメーカーをおさえて
1~3位を独占する快挙!・・・腕時計にように精巧なエンジンと
賞され、世界に日本人技術者の素晴らしさを、
驚嘆をもって見せつけたそうです。
また当時、日本人の観光客も少ないヨーロッパ
4輪のスピード世界の最高峰、【F1レース】では、
真白なボディーに日の丸をつけて
颯爽とホンダのマシーンが、ヨーロッパに登場。
当時の海外まで出向いた日本人ジャーナリストは、
その光景を観て、
日本人である事に誇りをもったと、記してありました。
私が、お会いした時は私はまだ、【ただの野球人、、、】
先輩方は宗一郎さんと仕事をした時の事を語る時は
いつもニコニコして、
泣きそうになって当時のことを、話してくださいます。
「世界で勝とうと、いうのに寝るなんて贅沢だ!
なんて言われて、こっちも真剣に
食べ過ぎて胃潰瘍になるか、食べれずに栄養失調になるか・・・だたぞー」と。
そこには、日本人としてのハングリー精神、
今の見ていろー、
という【大和魂】が燃えたぎっていたのでしょう
しかし、社内での社長講話は、いつも笑いの渦、大笑い。
普通の社長の話しというと、居眠りや、消える人もいるが
いつも会場は超満員、有休を取り消してまで
社長の話しを心待ちにしていたと。
先輩エンジニア(職人)は、教えてくれました。
副社長:藤沢さんとの日々真剣勝負の中で、
夢を追い続けている二人の話は、
リアルな話題での掛け合い、、、漫才を聞いているようだったと。
言葉がわからないのに、ブラジルの英雄:アイルトンセナとの
対面では、「君のために、世界一のエンジンをつくる!」と、
言葉がわからないはずの、セナが涙を流していたのは有名ですが
言葉にならない何かを感じたのかも、しれません。
あの魅力ある笑顔は他社で働いていても、ファンになったと思いますが。。。
笑いの中に垣間見る真剣さ、国境を越えて、人種を越えて
通用する技術を追求し、日本人のみならず人類のためにと、
叱咤激励する姿は、
ビデオの中でも、おそろしく研ぎ澄まされた気と、
気迫を感じとることが出来る。そして、受け継がれ、
五感に叩き込まれた、そのDNAと衝撃は、
数十年たった今も、私の財産になっています。